小山のタケノコのはなし
パルム商店街では、今年の5月にタケノコ祭りが開かれました。また、武蔵小山商店街振興組合のビルに入ってすぐ右には、黄金のタケノコがあります。今回は小山のタケノコについて、詳しく調べてきました。
<黄金のタケノコ>
江戸時代は安永年間のこと、紀州出身で、関西の産物を江戸に運び、手広く廻船問屋(かいせんどんや:江戸時代、荷主と船主の間にあって、積み荷の取り扱いをした業者)を営んだ「山路治郎兵衛 勝孝(やまじじろべいかつたか)」という人が築地 鉄砲洲に店を構えていました。勝孝は隠居して品川の後地(うしろじ)に別宅を持つことになりました。
勝孝が後地に越してきた1773年、江戸はたいへん大きな台風の来襲を受け、立会川や目黒川では洪水が起き、刈入れ前の稲が全滅してしまいました。このあたりはもともと米質がよくないことから年貢には米を買って納めていましたが、農民はそれすらできなくなって苦しい生活を強いられていました。
浄土真宗西本願寺の門徒(もんと:浄土真宗の信者のこと)でもあった勝孝は、農民の暮らしを何とか良くしたいと思い、この辺りを鎌倉時代に南品河郡桐井村(みなみしながわぐんきりいむら)と呼んでいたことや、桐ケ谷村という地名が近くに残っていることから、桐の栽培に向いているのではないかと、庭に植えて周辺の農民にも栽培を勧めました。しかし木材は商品になるのが10年、20年先のこと。目の前の日々を何とか乗り切りたいという農民にとって、桐はいまひとつ受けがわるく、広まらなかったそうです。
勝孝はいろいろな果樹の栽培をためした後、最後に成長の早い孟宗竹(もうそうちく)に目を付けます。孟宗竹は中国原産で、1736年に薩摩藩が中国と交易のあった琉球から取り寄せました。その後藩の特産品とし50年の長きにわたり門外不出となっていましたが、勝孝は1789年、品川の薩摩藩下屋敷から鉢植えの孟宗竹を手に入れました(この件からも勝孝の商家としての力量がうかがえます)。それを別宅の庭に植えたところ、どんどん増えて竹林になりました。勝孝が後地に来てから16年目のことでした。
タケノコは漢方ではぜん息や心臓病、糖尿病、ガンなどに利くとされており、血圧を下げるカリウムの含有量が多く、ビタミン類や食物繊維が豊富なことから美肌にも良いと言われていましたが、江戸の庶民の間ではタケノコを食用にすることは広まっていませんでした。勝孝は、かつて植えた桐で箱を作り、タケノコを入れて神田多町の御用市場(幕府が使った市場)に出荷して販売したところ、これが受けて、最初は桐の箱ほしさから徐々に売れ始めたそうです。
また勝孝は目黒不動尊(龍泉寺)の門前茶屋に『筍めし』を作って売りださせ、タケノコは鰹(かつお)とならんで春の名物として知られるようになりました。タケノコはこうして次第に庶民の食卓にも上がるようになりました。
勝孝は農民に孟宗竹を分け、村内の雑木林は竹林となりました。また地元の名主石川紋左衛門(いしかわもんざえもん)と協力して『根埋(ねいけ)法』という栽培法を編み出ししました。地上に出ようとする竹の根のうち、良いものだけを選定して夏から柔らかい土とワラをかぶせて育てる方法で、これで品質の良いタケノコを生産することができるようになったそうです。
また初物として2月に若筍を収穫し、きれいに編んだ竹かごや桐箱に入れて売りだすようにしたところ、武家や商家の高級な贈答品として珍重されたそうです。
<全盛期の頃の竹林>
竹林は戸越村、中延村、碑文谷村まで広がり、明治時代には全国的に有名になりました。このあたりには「たけのこ勘定」という言葉までありました。大きな支払いはタケノコの出荷が終わってからすることを指した言葉です。
勝孝が亡くなった翌年、勝孝の息子が遺言にしたがって別宅のあった一帯の中の竹林に碑を建てました。今も『孟宗竹栽培記念碑』(品川区指定文化財)として小山1丁目5-14に存在します。
「櫓(ろ)も楫(かじ)も弥陀(みだ)にまかせて雪見かな」。勝孝の廻船問屋としての辞世の句が刻まれています。
<勝孝の子孫、山路安清さん。見せていただいた勝孝直筆の遺言には、農業に精を出すこと、使用人と一緒に同じ食事とることなど勤倹貯蓄、慈善博愛、勧農精神の処世訓が記されていました。>
<筍の形をした『孟宗竹栽培記念碑』>
【参考文献】
『近世の品川』 品川区教育委員会 編
『ふるさと小山の村から街へ』 名倉俊衛 著
(文章・写真: WOREC Co.,Ltd)




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