2012年8月31日金曜日

黒湯

黒湯の話

今回は、趣向を少しかえて、東京の温泉についてです。

現在800軒あるといわれている東京の銭湯。その中に、通常の銭湯の料金(450円)で、天然の温泉が楽しめる銭湯が、50軒以上あります。武蔵小山にも、天然温泉につかれる最新の温泉銭湯があり、都内各地から温泉好きの人がやってきています。

温泉、というと、硫黄(いおう)の匂いや白っぽい濁り湯(にごりゆ)を思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうが、東京の温泉は「黒湯」と言われる、黒いお湯が特徴です。東京でも温泉が湧き出すということにまずおどろきますが、その色を見て二度びっくり、というほど黒いお湯なのです。

東京で、『黒湯』と書かれた銭湯では、地下から温泉をくみ上げています。コーヒー色の湯船におそるおそる入ってみると…手を10センチ沈めると、見えなくなるほどのにごり。お湯はトロッとしていて臭みがなく、風呂から上がるとお肌はサラッとして、いつまでも体がぽかぽか温かいまま。冬にこのお湯につかると体が温まって冷めないのはもちろん、夏でも朝風呂に黒湯につかると、サラサラした肌の感触で一日中快適に過ごせる、と評判です。

この温泉は、200万年も前、植物が、バクテリア(自然界にいる菌)によってまず大きく分解され、残った物質が地中でゆっくりゆっくり分解されて、フミンという有機物になります。それがお湯に溶け込んで、黒っぽい色に見えるのです。温泉のお湯は、くみ上げたらすぐにミネラル分などの栄養がなくなってしまうのですが、このフミンが、いろんなミネラルと結びついて、お湯をくみ上げた後も長い間新鮮なままで、入浴する人に栄養を与えてくれます。入るとお肌が柔らかくなり、また、殺菌効果もあるので、黒湯は銭湯にはもってこいのお湯なのです。

大昔の関東平野は、もともと堅い岩盤(がんばん)でした。ヒトの祖先が出現したといわれる約200万年前ごろ、その岩盤が沈みこみはじめて、ちょうど鍋のような形になりました。そのあと、氷河期・間氷期(かんぴょうき)が何度もやってきて、海の水位が上がったり下がったりし、東京湾は大きくなったり陸地になったりを繰り返したそうです。その間に凹んだ岩盤の上に、川から運ばれた土が堆積しました(上総層群:かずさそうぐん、と言うそうです)。

黒湯の多く出る品川・大田地域は、ちょうど100~200万年前の東京湾の「へり」でした。そこに生えていた海辺の植物が、次第に上総層群の中に堆積していって、それが長い間に黒湯となりました。硬い岩盤が鍋の底のように下にあるので、お湯が逃げずに保たれたまま、今200m下の地層から黒い温泉となって湧き出しているのです。

日本は4つのプレートがぶつかってできた、はげしい地形の変化をくりかえす国です。最近もいろんな災害でそれを思い知ることになりましたが、一方、地形の変化のおかげで、都市でもこのような温泉の恩恵にあずかることができます。ぜひ気軽に、200万年の歴史を経て湧き出した、黒湯をじっくり味わってみてはいかがでしょうか。

<東京湾断面>


(文章・写真: WOREC Co.,Ltd)

2012年7月31日火曜日

平塚の碑

平塚の碑

武蔵小山の歴史を訪ねていますが、その第3回は、『平塚の碑』についてです。

パルムの南端を出て、東西に走る中原街道(なかはらかいどう)と26号線の交差点を平塚橋交差点(ひらつかばしこうさてん)と言います。そこから少し西に進み、バーミヤンと自転車店KOOWHO(光風)の間の道を入ってすぐ左に曲がると、小さな鳥居が見えます。


鳥居の奥には板碑(いたひ:石に言葉を刻み、歴史的ないわれをあらわしたもの)があり、『平塚之碑』と刻まれています。

昔ここには大きな塚があったと伝えられています。

品川区教育委員会の看板によると、1083年~1087年に奥州を舞台に勃発した『後三年の役(ごさんねんのえき)』に、兄を助けに駆けつけた新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が、その帰り道ここで夜盗に襲われて多数の家来を失い、それを埋めて塚にしてとむらった伝えられています。

新羅三郎義光は本名を源義光(みなもとのよしみつ)といい、河内源氏二代目棟梁(とうりょう:リーダー)、源頼義(みなもとのよりよし)の三男です。

父の源頼義は、陸奥守として前九年の役(ぜんくねんのえき)で安倍氏を討ちました。その子、義家・義綱・義光は、同じ母から生まれた兄弟でした。

なぜ『新羅三郎』義光という、変わった呼び方をするかというと、当時は本名で呼ぶのはおそれ多くて失礼であると思われ、元服(げんぷく:昔の成人式)をした神社の名前をとって呼んだからです。

長男・義家は、『八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)』、二男・義綱は『賀茂二郎義綱(かものじろうよしつな)』、三男・義光は新羅三郎義光と呼ばれ、それぞれ京都の岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、上賀茂神社(かみがもじんじゃ)、大津の三井寺(みいでら)にある新羅善神堂(しんらぜんじんどう)から呼び名をとりました。

とくに長男の義家は、『泣く子も黙る八幡太郎』といわれ、父の頼義とともに『後三年の役』のまえの『前九年の役』でも一緒に戦い、勇猛な武将としてたいへん怖れられていました。その後、陸奥国守となりましたが、『前九年の役』で勝者となった清原氏のお家の内紛から『後三年の役』がおこり、かなりの苦戦となりました。

その時京都にいた三男の義光は、長兄を助けに行きたいと朝廷に願い出ますが、許しが出ず、すべての官位を捨てて自分の家来とともに駆けつけます。

義光は武術にたけた人で、のちにおこった合気道では、彼が開祖とされています。

また、その一方、笙(しょう:雅楽などで使う竹で作った管楽器)の名手でもありました。『後三年の役』で兄のもとにおもむく時、笙の師の子どもが義光を慕って足柄峠(あしがらとうげ:静岡と神奈川の県境)までついてきてしまいました。彼はその子どもに、愛用の名器と演奏法や曲を教え、託したと言われています。

義光が戦場となっていた秋田県横手市金沢柵(かなざわのさく:今でいう簡単な城)に到着した時、兄の義家は涙を流して喜んだそうです。

後三年の役は、日本で最初の兵糧攻め(ひょうろうぜめ:敵の陣地を囲んで食糧が流入しないようにする戦法)を仕掛けるなどのたいへんはげしい戦いとなりました。しかし、多くの家来の活躍があり、源氏がかろうじて勝利を収めました。この後、東北地方は奥州藤原氏の時代を迎えます。

品川・平塚での出来事は、義光がこの戦いから京へ帰る時のことだったのです。

義光の子孫は長い歴史の中で、そのあと武田氏・佐竹氏・南部氏などとなり、とくに室町時代に活躍します。
長兄・義家の子孫も、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)などを排出し、後三年の役に一緒に活躍した家来の子孫が、鎌倉幕府をささえる礎(いしずえ)となります。

苦労をともにし、未来の夢を描きながら一緒に帰途についた家来を失った義光の嘆きは、どんなに深いものだったでしょうか。
今では塚はなくなりましたが、その名前から、このあたり一帯は『平塚』と呼ばれています。

この『平塚の碑』と、『平塚』という地名には、そんな物語が息づいています。

<『平塚の碑』>


(文章・写真: WOREC Co.,Ltd)

2012年6月30日土曜日

小山のタケノコ

小山のタケノコのはなし

パルム商店街では、今年の5月にタケノコ祭りが開かれました。また、武蔵小山商店街振興組合のビルに入ってすぐ右には、黄金のタケノコがあります。

今回は小山のタケノコについて、詳しく調べてきました。

<黄金のタケノコ>


江戸時代は安永年間のこと、紀州出身で、関西の産物を江戸に運び、手広く廻船問屋(かいせんどんや:江戸時代、荷主と船主の間にあって、積み荷の取り扱いをした業者)を営んだ「山路治郎兵衛 勝孝(やまじじろべいかつたか)」という人が築地 鉄砲洲に店を構えていました。勝孝は隠居して品川の後地(うしろじ)に別宅を持つことになりました。

勝孝が後地に越してきた1773年、江戸はたいへん大きな台風の来襲を受け、立会川や目黒川では洪水が起き、刈入れ前の稲が全滅してしまいました。このあたりはもともと米質がよくないことから年貢には米を買って納めていましたが、農民はそれすらできなくなって苦しい生活を強いられていました。

浄土真宗西本願寺の門徒(もんと:浄土真宗の信者のこと)でもあった勝孝は、農民の暮らしを何とか良くしたいと思い、この辺りを鎌倉時代に南品河郡桐井村(みなみしながわぐんきりいむら)と呼んでいたことや、桐ケ谷村という地名が近くに残っていることから、桐の栽培に向いているのではないかと、庭に植えて周辺の農民にも栽培を勧めました。しかし木材は商品になるのが10年、20年先のこと。目の前の日々を何とか乗り切りたいという農民にとって、桐はいまひとつ受けがわるく、広まらなかったそうです。

勝孝はいろいろな果樹の栽培をためした後、最後に成長の早い孟宗竹(もうそうちく)に目を付けます。孟宗竹は中国原産で、1736年に薩摩藩が中国と交易のあった琉球から取り寄せました。その後藩の特産品とし50年の長きにわたり門外不出となっていましたが、勝孝は1789年、品川の薩摩藩下屋敷から鉢植えの孟宗竹を手に入れました(この件からも勝孝の商家としての力量がうかがえます)。それを別宅の庭に植えたところ、どんどん増えて竹林になりました。勝孝が後地に来てから16年目のことでした。

タケノコは漢方ではぜん息や心臓病、糖尿病、ガンなどに利くとされており、血圧を下げるカリウムの含有量が多く、ビタミン類や食物繊維が豊富なことから美肌にも良いと言われていましたが、江戸の庶民の間ではタケノコを食用にすることは広まっていませんでした。勝孝は、かつて植えた桐で箱を作り、タケノコを入れて神田多町の御用市場(幕府が使った市場)に出荷して販売したところ、これが受けて、最初は桐の箱ほしさから徐々に売れ始めたそうです。

また勝孝は目黒不動尊(龍泉寺)の門前茶屋に『筍めし』を作って売りださせ、タケノコは鰹(かつお)とならんで春の名物として知られるようになりました。タケノコはこうして次第に庶民の食卓にも上がるようになりました。

勝孝は農民に孟宗竹を分け、村内の雑木林は竹林となりました。また地元の名主石川紋左衛門(いしかわもんざえもん)と協力して『根埋(ねいけ)法』という栽培法を編み出ししました。地上に出ようとする竹の根のうち、良いものだけを選定して夏から柔らかい土とワラをかぶせて育てる方法で、これで品質の良いタケノコを生産することができるようになったそうです。

また初物として2月に若筍を収穫し、きれいに編んだ竹かごや桐箱に入れて売りだすようにしたところ、武家や商家の高級な贈答品として珍重されたそうです。
<全盛期の頃の竹林>


竹林は戸越村、中延村、碑文谷村まで広がり、明治時代には全国的に有名になりました。このあたりには「たけのこ勘定」という言葉までありました。大きな支払いはタケノコの出荷が終わってからすることを指した言葉です。

勝孝が亡くなった翌年、勝孝の息子が遺言にしたがって別宅のあった一帯の中の竹林に碑を建てました。今も『孟宗竹栽培記念碑』(品川区指定文化財)として小山1丁目5-14に存在します。

「櫓(ろ)も楫(かじ)も弥陀(みだ)にまかせて雪見かな」。勝孝の廻船問屋としての辞世の句が刻まれています。

<勝孝の子孫、山路安清さん。見せていただいた勝孝直筆の遺言には、農業に精を出すこと、使用人と一緒に同じ食事とることなど勤倹貯蓄、慈善博愛、勧農精神の処世訓が記されていました。>


<筍の形をした『孟宗竹栽培記念碑』>


【参考文献】
『近世の品川』 品川区教育委員会 編
『ふるさと小山の村から街へ』 名倉俊衛 著

(文章・写真: WOREC Co.,Ltd)

2012年4月30日月曜日

パルム商店街の龍

なぜ、春になると、パルム商店街のアーケードに、龍が飾りつけられるの?

武蔵小山にまつわる不思議な話を、当事者に取材してコラムにしてしまおうという企画です。
第1回目のテーマは、「なぜ、春になると、パルム商店街のアーケードに、龍が飾りつけられるの?」です。

パルム商店街の龍

発端は、ワラウカドのオーナー川口さんとの「ところで、なんで春になると、パルム商店街に龍が飾りつけられるんですかね?」というひとことでした。
今年は辰年(たつどし)だけど、でも毎年やっているようなので、辰年とは関係なさそう。

ということで、パルム商店街の事務長 横尾さんにお聞きしてきました。

横尾さん:「パルム商店街では、ポイントサービスが始まる前は、秋に商店街加盟店に協力いただき、そのお店自慢の品を特価で提供する、黄金市というバーゲンセールを大々的に行っていました。 黄金と言えば龍ですよね。(※編集部の注釈:龍が持っているのは黄金の如意宝珠ということ。)
なので、龍の飾りものを作ったんです。色を変えて5種類。

平成5年3月に、パルムポイントサービスを開始しています。
日によって2倍、5倍になるポイント還元が、ある意味、バーゲンセールの意味合いを持っています。
ですので、秋の「黄金市」というバーゲンセールの意味合いが薄れてきたんです。
そして、5つの大きな龍が残った。
さて、どうしようかと。

龍と言えば黄金、黄金はゴールド、ゴールデンウィーク!
みたいな連想で、ゴールデンウィーク前に、龍を使おうということになったんです。それが平成8年ごろですかね。」

なるほど!
ところで、龍は誰がどのように作ったんですか。

横尾さん:「龍の顔は看板屋さんが作ったんですよ。そうそう、佐藤さん。荏原の。(※荏原四丁目の有限会社アトリエ舎の佐藤さん)

それで、胴体は、あれは、鯉のぼりに足をつけたんです。そう、鯉のぼり屋さんに作ってもらったんです。(※鯉のぼり製作会社に、鯉のぼりの製作技術を応用して、龍の胴体を作ってもらったということ)

で、目も光るんです。そうそう光るの。
でもね、夜、光らせると、住んでいる人から、まぶしくて寝られないって、クレームが出たので、今は光らせてないんです。節電の意味もあるし。」

へー!

横尾さん:「それで、黄金の龍は縁起がいいので、毎年設置場所を変えるんです。加盟店さんへの公平性を考えて。
今年はどこに飾られているかな。(※パルム4のあたりでした。)
パルム商店街の黄金の龍


それで、もう10年以上、やっているけど、この龍が現れると、もうすぐゴールデンウィークという風に連想してもらえるようになっているんじゃないかな。そして、商店街には毎年テレビ番組のヒーローがやってくるので、子供たちには龍が飾られると『あ、ヒーローが来る』と思ってくれるんじゃないかと。

それとね、・・・」

他にもいっぱい面白いネタ、お聞きしました。
パルム商店街のキャラクター、パム、パルの誕生秘話とか。それはまたおいおい書くとして、これ、知ってました?

パルム商店街の黄金のタケノコ

黄金のタケノコ。パルム商店街事務局の1Fに設置されています。(こちらも、アトリエ舎の佐藤さんの作品。)
武蔵小山商店街連合会のキャラクター「たけ丸」とも、なにげにつながっているのかも。

※龍のうんちく
ツノは鹿、頭はラクダ、眼はオニ、体は蛇、うろこはコイといわれる龍。
コイが滝を上ると龍になるそうです。


みなさんからの、「この不思議を調べてほしい!」もお待ちしています。
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メール: musakoapp@gmail.com

三谷八幡神社

武蔵小山の歴史や遺跡をテーマに、毎月コラムをお届けします。
第1回のテーマは、三谷八幡神社(さんやはちまんじんじゃ)です。

三谷八幡神社

パルム商店街のマクドナルドのある交差点を西小山方面に150mほど行くと、『三谷八幡神社』(さんやはちまんじんじゃ)があります。
三谷八幡神社の地図

御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと:応神天皇)です 。

1030年頃、源頼信(みなもとのよりのぶ)によって奉られ、江戸城を築いた大田道灌が品川に住んでいた時に崇敬した小山八幡神社を、江戸時代の始めに三谷の名主・石井氏が地元三谷の出世稲荷社の地に遷座し、この地域の氏神とされたということです。

源頼信は河内源氏の祖で、八幡太郎義家の祖父にあたります。1028年に千葉・茨城一帯で起こった平忠常の乱の平定を朝廷に命じられ、これを鎮圧させた功績で河内源氏が起こりました。

品川・荏原地域は八幡神社が多く、源氏にゆかりの深い土地。『源氏前小学校』という名前の小学校もあるほどです。

小山八幡神社と一緒に毎年9月の土日に、両社祭が行われます。(両社とは、三谷八幡神社と小山八幡神社の2つの神社ということなんです。)
夏のおわりには商店街には提灯が灯され街は活気づきます。
祭がおわると地元の人たちは片づけをしながら心はすでに来年の祭りへ。
次の1年が始まります。

(文章: WOREC Co.,Ltd)