平塚の碑
武蔵小山の歴史を訪ねていますが、その第3回は、『平塚の碑』についてです。
パルムの南端を出て、東西に走る中原街道(なかはらかいどう)と26号線の交差点を平塚橋交差点(ひらつかばしこうさてん)と言います。そこから少し西に進み、バーミヤンと自転車店KOOWHO(光風)の間の道を入ってすぐ左に曲がると、小さな鳥居が見えます。
鳥居の奥には板碑(いたひ:石に言葉を刻み、歴史的ないわれをあらわしたもの)があり、『平塚之碑』と刻まれています。
昔ここには大きな塚があったと伝えられています。
品川区教育委員会の看板によると、1083年~1087年に奥州を舞台に勃発した『後三年の役(ごさんねんのえき)』に、兄を助けに駆けつけた新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が、その帰り道ここで夜盗に襲われて多数の家来を失い、それを埋めて塚にしてとむらった伝えられています。
新羅三郎義光は本名を源義光(みなもとのよしみつ)といい、河内源氏二代目棟梁(とうりょう:リーダー)、源頼義(みなもとのよりよし)の三男です。
父の源頼義は、陸奥守として前九年の役(ぜんくねんのえき)で安倍氏を討ちました。その子、義家・義綱・義光は、同じ母から生まれた兄弟でした。
なぜ『新羅三郎』義光という、変わった呼び方をするかというと、当時は本名で呼ぶのはおそれ多くて失礼であると思われ、元服(げんぷく:昔の成人式)をした神社の名前をとって呼んだからです。
長男・義家は、『八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)』、二男・義綱は『賀茂二郎義綱(かものじろうよしつな)』、三男・義光は新羅三郎義光と呼ばれ、それぞれ京都の岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、上賀茂神社(かみがもじんじゃ)、大津の三井寺(みいでら)にある新羅善神堂(しんらぜんじんどう)から呼び名をとりました。
とくに長男の義家は、『泣く子も黙る八幡太郎』といわれ、父の頼義とともに『後三年の役』のまえの『前九年の役』でも一緒に戦い、勇猛な武将としてたいへん怖れられていました。その後、陸奥国守となりましたが、『前九年の役』で勝者となった清原氏のお家の内紛から『後三年の役』がおこり、かなりの苦戦となりました。
その時京都にいた三男の義光は、長兄を助けに行きたいと朝廷に願い出ますが、許しが出ず、すべての官位を捨てて自分の家来とともに駆けつけます。
義光は武術にたけた人で、のちにおこった合気道では、彼が開祖とされています。
また、その一方、笙(しょう:雅楽などで使う竹で作った管楽器)の名手でもありました。『後三年の役』で兄のもとにおもむく時、笙の師の子どもが義光を慕って足柄峠(あしがらとうげ:静岡と神奈川の県境)までついてきてしまいました。彼はその子どもに、愛用の名器と演奏法や曲を教え、託したと言われています。
義光が戦場となっていた秋田県横手市金沢柵(かなざわのさく:今でいう簡単な城)に到着した時、兄の義家は涙を流して喜んだそうです。
後三年の役は、日本で最初の兵糧攻め(ひょうろうぜめ:敵の陣地を囲んで食糧が流入しないようにする戦法)を仕掛けるなどのたいへんはげしい戦いとなりました。しかし、多くの家来の活躍があり、源氏がかろうじて勝利を収めました。この後、東北地方は奥州藤原氏の時代を迎えます。
品川・平塚での出来事は、義光がこの戦いから京へ帰る時のことだったのです。
義光の子孫は長い歴史の中で、そのあと武田氏・佐竹氏・南部氏などとなり、とくに室町時代に活躍します。
長兄・義家の子孫も、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)などを排出し、後三年の役に一緒に活躍した家来の子孫が、鎌倉幕府をささえる礎(いしずえ)となります。
苦労をともにし、未来の夢を描きながら一緒に帰途についた家来を失った義光の嘆きは、どんなに深いものだったでしょうか。
今では塚はなくなりましたが、その名前から、このあたり一帯は『平塚』と呼ばれています。
この『平塚の碑』と、『平塚』という地名には、そんな物語が息づいています。
<『平塚の碑』>
(文章・写真: WOREC Co.,Ltd)

